ただ、今年は自分自身での区切りの年ですし、やっと元気になってきた感じもするので、もう少し色々と書いて残しておきたいなと。
「特別な人と呼ばれる(た)こと」から「いい人であろうとすることを止める」です。
※かなり長いです
■特別な人と呼ばれて
「特別な人」と呼ばれたら、悪い気がしないと思います。
でも振り返って、と言うか、恐竜的に感覚の鈍い私はようやっとそれが”まやかし”だったんだなぁって気づきました。(ある一部で、です)
過去にそう呼んだ人は、そう呼ぶことで繋ぎとめようとしていたのだろうし、また、これは私の性格?からか、私自身自分で言うのもあれですが「口が堅い」と思われたからか、色々と(恋愛関係ではない)告白をされることがありました。
でも結局言うだけ言って、それだけなんだなぁと。
別に特別な人だから何して欲しいとかそういうことはなく、普通に友達だったらと考えた時に「あれ?」って思うこともあって、結局「特別な人って何なのよ」と逆にたどると、単に「他に言えないようなことを言うだけに、特別な人として囲っておいて、聞いてもらったりする」ことだけか、と。
凄く穿った湾曲した言い方をすると、ある意味「詐欺っぽい」とでも言うか、そんな感じです。
***
一番最近あった出来事を書いてしまおうと思います。
自分の気持ちの整理のために。
私は、ある友達(だと思ってきた)である男性に会いに行きました。
特に喧嘩とかではなく、何となく疎遠になった時期もありましたが、また久々に会って、前から少し境遇が近い所があり親しみを感じていたことと、久々に会った事で自分自身の刺激になったと言うか、そんな感じで若干恋心めいたものもあったのが事実です。
ただ久々に会った時に少し話して、その男性は好きな人が居ると言っていたのと、住んでいる場所が遠方だったのもあり、私自身はこういう気持ちを持ったけども、それでどうしたい(恋人にしてほしい等)とは思いませんでした。そこまで若くないので(苦笑)気持ちにそこまで勢いは無いというか、まぁそういう気持ちを持ったのは久々だな~と言うようなそんな位でした。
その男性が、「44だから聞いて欲しいことがある」と言いました。
そして「聞いても友達でいて欲しい」とも言いました。
私は前述の通りそういう事は結構多かったのもありますし、今まで色々聞いたりしても、その内容で友達を止めると言うことを「しない」(上辺だけで友達を判断しない)つもりで居ましたので、そういう悩みで聞いて少しでも楽になるのなら、と思いました。
その男性に会いまして、呑みながら話を聞きました。
だいぶ呑みが進んできた所で。
内容は、端的に書くと不倫の話でした。
私とその男性が共通で知り合いの夫婦が居ました。夫婦のどちらも友達です。
その夫婦の奥さん側から、ある時急にアプローチを受けてしまい、旦那さんに隠れて何度も会ってきた、それがもう結構長い年数続いている、その気持ちがずっとくすぶっていると。
「で、どうしたいの」と聞くと
「その彼女は自分の理想の人だから、本当は結婚したいと思っている」と。
確かにずっとその男性が奥さんのことが理想なのは知ってましたし、その側面だけなら頑張ってと(気持ちだけでも)応援することは出来るのですけど、私の中で納得がいかない部分が、その旦那さんの方です。
その夫婦の諸々な話は直接聞いてきていて、色々な苦労を重ねながらずっと夫婦で来たと思っていましたし、外目から見たら今でも仲の良い夫婦に見えますし、私もそう思ってきました。お世話にもなってきましたし。
ただ、奥さんの方はそうではなかったんだなぁと…。
実際の夫婦のことは分かりませんけど、そこで知り得た事実で、私はその旦那さんが不憫に思えてなりませんでした。そして奥さんのことが理解できなかったし、もうこの先ちょっと普通にその夫婦には会いにくくなってしまいました。
友達である男性の気持ち、夫婦の奥さんの気持ち、旦那さんの境遇、私がその話を聞いても、誰も応援も助けも出来ないなぁと(当然なのですが)。またいくら「上辺だけで判断しない」と決めても、そういう気持ちが根底にある所で、普通に接するのはちょっと私は出来ないなぁと思いました。
**
若干端折ったり抽象的に書いてるので分かりにくいけど(究極は私だけが分かればいいかと思っているので(^_^;))、そんなことがあって、正直言うと、
「もう何か面倒くさいなぁ…」
と、その関係者とそれに少し輪をかけた人たち皆と疎遠にすることにしました。
でもふと今日その関係者の各種情報をネットで見たところ、何も変わらず過ごしているようでした。当然といえば当然ですけど。
なので、そんなことで自分が気に病むのは無駄だなと思いましたし、でも最初から気に病まずにそれまで通りに過ごす選択は考えになかったので、これはこれで良かったんだろうなと思いました。
別に私一人が疎遠になったところで、誰も困らないし、誰も悲しまないし、何も生活などは変わらないのです。
そう、別に特別な人ではないのだから。
***
それよりなにより。
その男性と飲んだ夜と言うのは、このブログなどでも書いたのですが、実はお財布を落としてしまったのでした、しかも旅先で、まだ行程は残っています。
落としたことについて、その男性は警察に一緒に行ってくれたりホテル付近まで送ってくれたりはしましたのでその点は感謝していますが、酔っていたのもありますが、歩く間ほとんど話さず、またその場でお金が全くなくなったのが明白なのに、そのことについて何も触れてくれず…
しかも翌日の午後に送ってきたメールは、その告白した事実のことや、私がお財布をなくしたこと、まだ旅行中などのことは一切触れず、
「二日酔い大丈夫?昨日はお互い飲み過ぎたな。」
とだけでした。(うまく言葉が出てこなかったのかもしれませんけど)
何だか凄く哀しい気持ちになりましたが、それ以上を求めるのは、傲慢でしょうか。
(…傲慢なんでしょうね、多分。)
***
その一件だけでなく、以前にも似たようなことがありました。
やっぱりその人は「44だから」と言って、ちょっとした騒動に私を巻き込みました。
巻き込まれた私は仕方なく(これは今回のような自分の意思で、ではなく、そうせざるを得ない状況になってしまい)、その関係者と疎遠になりましたが、私を巻き込んだ当事者は連絡はそれっきりになりました。
(ちなみにどちらも同じ方面の人たちの話なので、私が今後その方面の人と会うことはもう無いと言う感じです)
***
私は別に特別な人でもなんでもないし、私だからと言って話をしようとしてくる人は、「そういうことなんだ」と言うのを改めて知った(思い出した)一件でした。
単純にお人よしに思われてきたのかもしれませんね。
■いい人であるとすることを止める
自分がやりたいことがはっきりしてきたのもあり、だいぶSNSやネットに関する興味が薄れてきました。前までは、そういうことで繋がっていたいとか、ネット関係は単純な興味とかがありました。
SNSについては、ここ最近少し書いている「シェア」「共有」と言うことへの自分の意味と言うか、そういうものを整理してきて、そこが自分の価値観の軸にはならないことも分かってきました。
Twitter・Facebook・Google+と一応やっていますが、今はTwitterがメインです。
しかも、一人Twitterで、非公開です。
(もう1つのアカウントもあるのですが、呟かずに読んでいるだけです)
一人Twitterはとても楽です。
愚痴でも文句でも暴言も書いてます。書くことでスッキリすることも多いです。また誰にも迷惑になりませんし、あとで見返すのも自分だけなので、反省にもなります。
共有したい!と言う気持ちも未来?の自分に対してだけです。
ひたすら自分自身との対話です。
それがベースになったら、本当にSNSは近況報告だけになりました。
なりました、と言うか出来ました、が正解かもしれません。
前までの無駄に繋がりたい欲(?)や聞いて欲しい欲(?)は薄らいできました。
(今はネタぽいもので、これならと思うものだけに)
***
今でも変わりませんが、私は人付き合いが苦手と言うか、得意ではないと言うか、あまりプライベートでの社会生活が得意ではないので(仕事上の社会生活は大丈夫なんですが)、今までも自分が思いもよらない形でトラブルを引き起こしたりしたことがありました。(自分が悪かったんだな、と思うんですが、原因への理解も低くて、本当に色んな意味で”生きることの下手くそさ加減”を味わってきました。)
年齢を重ねてきてようやっと、自分がそういう能力が低いことをきちんと認識できたことと(前述の件もそうです)、無理して人間関係を広げなくてもいいと思うようになったのと、自分が生きていたい場所や生きていて楽な(苦労をしないと言う意味ではなく、苦労をしても向き合える)場所がだいたい分かってきた感じで、少し楽になってきました。
多分年を取ったからなんだろうな、と思います。
若い頃はどこまでも無限大に見えますけど、「本当は自分の居場所ではない場所」に居たいと思うことも多くて(憧れや周囲の影響など)、結局合わないが為に疲れたり苦しんだりすることの繰り返しだった気がします。
どんどん年を重ねると選択肢が狭まってきますけど、その分自分の道は見えてきて(残って)、そこで納得できればとても楽なんだってことをようやっと分かってきたと言う感じです。
***
「いい人であろうとすることを止める」ですが、いい人であろうとしてきた自分は、割と「自分の居場所・世界外」に居る時に作ってきた感じがします。その世界での関係などを保とうとするばかりに、いい人であろうとしてしまうとでも言いますか。
私はようやっと自分の居場所かなと思える所に来たので、そういうのはもう止めて、もっと素に近いものを出せたらいいのにと思い始めたのです。
今日、前述のことを書いたのは、その「自分の世界ではない人との区切り」を持つために、自分の心の中でモヤモヤと持ち続けるのではなく、きちんと表に出してしまって(デトックス)消化しようと思ってのことでした。
多分、「いい人であろう」とするならば、私の中に持ち続けて誰にも言わずにいることが、告白してきた男性や相手の夫婦に対しての義?なのかもしれませんが、もうそれはしたくはありません。
また、昔付き合っていた人との別れでもそうでした。
別にそれを美化するつもりは(もう相当前の話でもありますし)ないのですが、別れた時に、相手の人のことを思って、「自分は色々なことから身を引こう」みたいに思ったのでした。(主には音楽関係ですが)
あとかなり下世話な話を書くと、一緒に暮らしていたのですが、その時のマンションの敷金(私も半分出したはず)や家財道具について、その後そのマンションを退去したらしいのですが私には返ってきていません!が、それを請求せず(笑)、あとあとから考えれば考えるほど「何で慰謝料請求しなかったんだろう」とか思ったりもしたのです(^_^;)。
そう、結局「いい人であろうとする」があまりに、自分が不幸になっていては意味がないんじゃないかと思ったのです。
ずっとそんなことを多くしてきた気がしたのです。
別に我が物顔でいようとか、人を踏み台にしようとか、そういうことではなく、そういう出来事があった時に、私自身を「引かせてしまう」のを止めようとでも言いますか。
そういう所があるのは、きちんと向き合うことが苦手なあまりに「そうしたことで何かが保てるのなら、引いてしまえば収まるのかな」と思ってしまい、そうしてきたことが多かったのです。
ただ、それも「自分の居場所」ならば多分向き合えるような気がするのです。ある程度は。
「保とう」と言うベクトルも違うというか、自分が守りたいという意味での「保つ」であれば、ある程度の戦い(大小問わず)もあると思いますが、居場所以外だと戦いすら避ける方向しか考えなかったのがこれまででしたので。
***
ホント色々と気づいたり理解するのが鈍くて遅いんですけど、今後も頑張って自分と向き合って、少しずつ決意していって、忘れないようにここに書いて、自分の生きたい方面・道を固めていこうと思っています。